あざらしのなく頃に
きゅうきゅう、と、どこかから音がするので、久々に家の中を片付けることにした。
積み上がるままに任せていたローダンシリーズとグインサーガと北方水滸伝をダンボール箱に詰め、散らばっているスウィートホームやMOTHERや女神転生やらをケースに収める。部屋の南端からジャングルを形成しつつあったシダとソテツの群生林を根こそぎ伐採し、そこから飛び出してきたメガロドンやラムフォリンクスやその他諸々を一頭残らず捕獲し、首を落とし、皮は剥いで鞣し、食べきれない肉は薫製にして物干し台から吊す。畳を剥がして、その下にびっしりと埋め尽くされた茸や菌類を、こそげ落とす。食用になるものは洗濯籠に放り込む。
飾り棚でガンプラと超合金が大惨事スーパーロボット大戦を引き起こしていたのは、見なかったことにする。次代に残したい素晴らしい言葉だと思う。
これでかなり片付いたが、ようやく半分といったところだ。
きゅうきゅうという奇妙な音は止まない。片付けに飽きた、もとい疲れたので、耳を澄まして、音源を探り当ててみる。どうやら隣の部屋から聞こえるようだった。
「何やってるの」
その隣の部屋から、俺の生涯二番目の彼女であるぐれ子が顔を出した。一番目の彼女である由紀恵はいい女だったが、ビニール製なのが残念だった。
ぐれ子の顔を見て、そこからやや視線を下げてから、驚いた。俺の視線に気付いたのか、不敵に笑ってみせた。
「どうしたんだ、それは」
「朝起きたらこうなってたの。どう?」
信じられないことが起こっていた。端的に言うならば、ぐれ子の乳が、膨らんでいたのだ。贔屓目に見てもBくらいまでの大きさしかなかったはずのそれが、目算でしか計れないがXとかZとかたぶんそれくらいの大きさまで膨張していたのだ。由々しき自体だった。
変わっているのが乳だけでもないことに、俺は気付いた。まず服装がおかしい。昨日までは英国ビクトリア朝時代の召使いが身に着けていた由緒正しいエプロンドレスを着せていたはずが、今は漆黒のスリップドレス一枚だけを纏っている。もちろんあの乳でエプロンドレスが着れるわけはないのだが、それにしてもぐれ子が選ぶ趣味の服装ではない。
それに、何と言っても物言いだ。本来なら、「朝目を覚ましたら、胸がこのようになってしまっていたのでございます、御主人様」そう言って下着一枚手ブラの格好で恥じらいながら俺の前へ出てくるのが筋というモノだ。なのに何だ。右手を頭の後ろ、左手を腰にやって、胸を突きだし誇示するかの如くのそのポージングは。恥じらいの欠片もないではないか。そういえば、ずっと身に着けさせていたはずの首輪も外していやがる。
いつもならこの時点で、マウントで三十発くらい殴っているところだが、あまりに雰囲気が変わっているので気後れした。だがここは、御主人様としてしっかり躾けてやらねばなるまい。
「朝起きたらこうなっていただと? 馬鹿を言うな。誰に頼んだ。高須か? あさひか? それはともかく、ちょっと揉ませろ」
マウントで三十一発殴られた。
「申しわけありませんでした」
「わかりゃいい」
トランクス一丁に首輪だけの姿にされた俺は、ソファに座り脚を組むぐれ子の前で土下座していた。そういえば乳のデカさと女の強さは比例するというヒロエ理論なるものをどこかで目にした覚えがある。あれは真実だったということだろうか。
「しかし、どうしてこんなことに」
「あたしが魅力的な女になることに、理由が必要かい?」
大きく首を横に振る。この世に様々な価値観はあろうが、女の身体は、何と言っても起伏がある方がいい。そもそもCカップ以下の乳など俺にとっては乳ではないので、そういう部分では、この変化は俺にとっても望むところだ。部分では。
「そうは言ってもだな。いくら何でも急すぎるだろう。それに、大きいことは確かにいいことだが、何より大切なのはトータルバランスだ。かの暗殺拳伝承者も「貴様の胸などただの脂肪の塊」とか言ってただろ。あと、五秒でいいから俺に揉ませ」
マウントで三十二発殴られた。
「まだ自分の立場がわかっていないみたいだね」
ぐれ子が立ち上がり、隣の部屋へ消えた。俺は何とか上半身を起こし、彼女が次に何をするつもりかとドキドキし、ではなく、ゾクゾクした。M的な意味ではない。本当だ。
戻ってきたぐれ子を見て、驚愕した。
一箱のダンボールが、俺の鼻先に大きな音を立てて降ろされた。
なぜだ。なぜこいつが、ここにある。ラングドン教授でも解けないレベルの暗号化を施して、秘密の部屋に隠匿していたはずなのに。
「もう、これは必要ないよな」
そう言って、俺が彼女の目に触れぬよう、厳重に隠していたDカップジャパンの創刊号から最終号までが詰まった箱に、上から容赦なく灯油を注ぐと、火を放った。
全俺が泣いた。
ぐれ子が去った部屋で大の字になったまま、どうしたものかと考えた。このままでは撲殺されてしまう。いやその前に自称雌犬の訓練士として大事なモノを色々失ってしまう。何とかしなければならない。
「あの乳だ……」
そうだ。原因は間違いなく、あの乳だ。あの乳をどうにかしない限り、俺の未来はない。
立ち上がれ。そして、戦え。俺の中に僅かに残されたS性が、叫びを上げていた。
立ち上がった。それから壁に架けてあったヨーロッパ土産のドラゴンスゲーヤーを手に取ると、鞘を払った。
あの乳を切り落とす。そう、覚悟を決めた。犬にだって、気概はある。それを、あの女に見せてやらねばならない。
まな板でもいい。慎ましく育って欲しい。そう思った。
「ぐれ子ぉ!」
大剣を振りかざして、ぐれ子の部屋に飛び込む。ぐれ子は肩に釘バットを担ぎ上げ、臨戦態勢だった。
「てめぇの考えくらいお見通しなんだよ、犬野郎」
剣を振り下ろす。ドラゴンはすごいという想いを込めて鍛えられた剛剣を、釘バットは易々と受け止めた。
「目を覚ませ、ぐれ子。肉食女子なんて、幻想だ。大和撫子の絶滅を嘆いた男どもが、仕方なく受け入れている。種牛がいなくなって国産牛肉が食べられなくなったから、危険な某外国産牛肉で我慢している。そういうことなんだ!」
「だったら簡単なことさ。ラベルだけ、貼り替えりゃいい。中身なんて、見ちゃいねえ。味わっちゃいねえ。いつだってそうだ。そして、いつだってそうしてきた。違うかい?」
剣が弾き飛ばされ、天井に刺さった。
「だったら、こいつを。大和撫子だと思えるようにすりゃあいい。簡単なことだろう? ん?」
確かに簡単なことだ。だが、それを受け入れたが最後。俺たち男は、女の奴隷に成り下がってしまう。いや、すでに成り下がりかけているといえた。
ぐれ子。お前が燃やしたのは、俺のお宝だけではないぞ。
体勢を低くし、突っ込む。手を伸ばし、乳を狙った。
あと三センチ。そのとき、歴史が動いた。
目の前の乳が吼え、先端が二つに割れて、俺の指に噛み付こうとしたのだ。
慌ててバックステップを踏み、鋭い先割れから逃れる。顎は閉じられ、きゅう、と凶暴さに似つかわしくない鳴き声を上げる。
こいつか、と俺は思った。
目の前を、唸りを上げてバットが通り過ぎる。俺は身体を捻り、右側にあった箪笥を蹴って、飛び上がった。
天井に刺さったままのドラゴンスゲーヤー。その柄を両手でしっかり握る。抜き出すと、引力が俺の身体を落下させる。
逆らうことなく、そのまま斬り下げた。
ぐれ子の胸元から、緑色の血が舞う。手応えが、柄から両腕に伝わってきた。
血を払い、剣を納める。仕留めたはずだ、と思う。だが、相手は化け物だ。確かなことはわからない。俺にわかるのは、敷金はもう返ってこないだろうということだけだった。
倒れている彼女を見る。スリップドレスが大きく破れていて、そこから見慣れた、彼女の残念な胸が覗いていた。
だが、紛れもない、俺の愛おしい彼女だった。
二つの乳の化け物は、いつの間にやら姿を消していた。
それから、平穏なときが過ぎた。
あれ以来ぐれ子は慎ましやかなM女に戻り、ある日は裸エプロン、またある日は全裸にワイシャツ一枚の姿で、三つ指ついて俺を出迎えてくれる。俺にとっても、彼女にとっても幸せな日々が続いていた。
だが、この頃俺には一つ。彼女には言っていないが一つだけ、気になっていることがある。
一週間ほど前のことだ。コンビニで買い物をして、自動ドアを潜った際に、きゅう、といったような響きの音を聞いた、ような気がした。その音に関しては敏感になっている俺は、すぐに辺りを見回したが、誰もいなかったし、何もいなかった。
空耳だろう。そのときは、そう思った。
次の日、道を歩いているとまた、電信柱の影辺りから、前日よりはっきりした音で、同じ鳴き声を聞いた。小走りで電信柱に駆け寄り、影を覗いてみたが、何もいなかった。
そうして、俺が街中を歩く度に、あの音、声、ともかくそういった類の何かが、どこかから聞こえた。
日に日に、俺があの不吉な音を耳にする頻度は増えていった。今ではもう、空耳などではないと、俺は確信していた。
俺は考える。あの化け物は、いったいどうなったのだろうかと考える。
あれは、消えたのではなかったのではないか。ただ逃げ、身を潜めて、自らの仲間を増やす機会を狙っていたのではないか。そうしてその企みは、今や成功しつつ、あるのではないか。
今の俺には、そう思えて仕方がないのだ。
今日も街のどこかから、きゅうきゅう、という可愛らしくもある鳴き声が聞こえる。
生きていけるのか。戦えるのか。俺は自問する。それから、意味のないことに気付く。
何を言っているのだ。ヤツらが現れる前から、生きることは、戦いだったのだ。
だから、俺は待っている。ただ、待つことにしている。ヤツらが、再び俺の前に姿を現すときを。
そのときこそ。俺は、すべての決着をつけよう。
そう。あざらしのなく頃に……。